新しいツールが次々に出てくる時代に、「いつ乗り換えるべきか」と迷う人は多いはずです。この記事を読むと、明治の写真師・江崎礼二の経歴から、資料で確かめられる事実と、そこから引き出せる考え方が分かります。
江崎礼二とはどんな人物か
東京都歴史文化財団のコレクションサイト「Tokyo Museum Collection」の解説によると、江崎礼二は岐阜県の江崎村の出身で、1870年に上京し、柳川春三の『写真鏡図説』で湿板写真術を独学しました。横浜で下岡蓮杖の教えを受け、1871年に東京・芝で写真館を開業し、翌1872年に浅草・奥山へ移転しています。
出典:Tokyo Museum Collection(東京都写真美術館所蔵作品の解説)
生年は弘化2年3月3日(1845年4月9日)と、文化庁のartplatform.go.jpに記載があります。没年は1910年で資料は一致しますが、日付は資料で割れます。artplatformの作家ページは6月23日、英語版Wikipediaは6月7日としているため、この記事では没年月日を断定しません。
「早撮り」とは何だったのか
同じ解説文には、次の趣旨の記述があります。
- 欧米で実用化された写真乾板を、1883年に輸入した
- 同年、隅田川で行われた水雷爆破の瞬間を撮影した
- 乾板は湿板より感度が高く、露光時間が短い。その特性を生かした「早取り写真」で名声を得た
つまり「早撮り」の中身は、腕前だけの話ではなく、感度の高い新しい感材に乗り換えたことで、それまで写しにくかった一瞬を捉えられるようになったという点にあります。英語版Wikipediaは、花火の撮影に1889年に成功したことにも触れています(Esaki Reiji)。
なお、英語版Wikipediaは江崎を「乾板を使った最初の日本人写真家」と書いています。一方、Tokyo Museum Collectionの解説は「輸入した」と述べるにとどまり、「日本初」とは書いていません。この点は単独の記述なので、「諸説あり・確定していない」と受け止めておくのが安全です。
資料から言えること、言えないこと
ここで、資料で確かめられる範囲を分けておきます。
確かめられること - 1883年に乾板を輸入し、水雷爆破の瞬間を撮影したこと - 乾板の感度の高さと露光時間の短さを生かして名声を得たこと - 浅草・奥山に写真館を構えたこと
確かめられていないこと - 「早撮りが当時の情報伝達や意思決定を変えた」といった社会全体への影響 - 同時代の実業家の動きと結びつけた因果関係
後者は魅力的な物語ですが、今回確認した資料には根拠がありません。歴史上の人物を現代のビジネスの教訓に読み替えるときほど、この線引きが大事になります。
現代の仕事に引き寄せると
そのうえで、確かめられた事実だけから、控えめに引き出せる考え方が3つあります。
- 新しい道具は「できなかったこと」で評価する。 乾板の価値は、それまで写せなかった一瞬が写せることでした。新しいツールも、作業が少し速くなるかではなく、これまで諦めていたことができるかで見ると、乗り換える理由がはっきりします。
- 看板になる題材を1つ持つ。 水雷爆破という誰の目にも分かる題材が、技術の違いを伝える証拠になりました。新しい手法を試すときも、成果が一目で伝わる小さな題材を選ぶと、評価されやすくなります。
- 道具の名前を看板にする。 東京大学総合研究博物館の三宅家資料には「早取写真師 江崎礼二製(東京浅草公園)」と記された記念写真が残るとされます(東京大学デジタルアーカイブ)。自分の強みを一言で示す呼び名が、仕事の入口になった可能性があります(この点は資料の存在を示すにとどまり、集客への効果までは確認できていません)。
まとめ
江崎礼二の事例から確実に言えるのは、「新しい感材を早く取り入れ、分かりやすい題材で成果を見せた」という経緯です。そこに現代の話を重ねるときは、確かめられた事実と、自分の解釈を分けて読むのがよさそうです。