貸出冊数では測れない図書館の価値

知新家ブログ|蒼井冬夏

図書館を「円」で測ろうとした人たち

図書館の価値を数字にする試みには、実はかなりの蓄積がある。使われる手法は主に三つで、費用便益分析(運営費と便益を金額換算して比較する)、投資対効果(予算に対する効果を倍率で示す)、そして条件付き価値評価法(CVM)——「もし図書館が有料だったらいくら払うか」という支払意思額を住民に尋ねる、もともとは環境経済学から来た手法だ。

米国ではこの種の調査が1990年代後半から2000年代にかけて相次いだ。セントルイス公共図書館は投資1ドルに対し効果4ドル、マイアミ・デイド郡は1ドルに対し6.75ドル、フロリダ州全体では6.54ドル、オハイオ州の図書館システムでは3.81ドルという結果が出ている。シアトル公共図書館は単年で1,561万ドルの経済効果を試算した。数字だけ見ると、図書館は驚くほど「割のいい投資」に見える。

ただ、この手の推計には昔から過大評価批判がついて回る。支払意思額という仮想の質問に対する回答の信頼性、そもそもの回答率の低さは、CVMを使った研究のほぼすべてで課題として名指しされている。日本国内でCVMを使った公共図書館の経済評価研究はまだ数が少なく、支払意思額が100円・50円といった「きりのよい金額」に集中する傾向が報告されている程度だ。日本では釧路市中央図書館が、来館者が周辺でどれだけ飲食や買い物をしたかという「まちなか行動」を追跡する形で、間接的な経済波及効果を測る調査を行っている。米国が図書館そのものの価値を直接尋ねるのに対し、日本は図書館が地域に落とす副次的な消費を数える——同じ「経済効果」でも、測り方の設計思想が違う。

棚は完結していない

図書館にはもう一つ、数字にしにくい仕事がある。何を残し、何を漏らすかという選書・除籍の判断だ。

日本の出版物は国立国会図書館法に基づく納本制度により、原則すべてが国会図書館に集められる建前になっている。ただし簡易な資料や、公開が適当でない資料は対象から外れる。加えて図書館情報学には「灰色文献」という概念があり、これは商業出版の正規ルートに乗らない報告書やパンフレット類を指す中間領域だ。網羅的収集という制度と、その外側を個別の担い手が拾う灰色文献収集——この二層のどちらからも漏れやすいのが、作家自身が発表を控えた作品や、住民が自分たちで編んだ地域史誌になる。

「大字誌」と呼ばれる冊子がその代表例だ。字・大字・町内会といった市町村より小さい範域の歴史を、住民自身が編集・刊行する地域史誌で、担い手には元教員が多い。東日本大震災の被災地では、避難で住民が離散し「誰も住んでいない地域」になった集落の記憶をつなぐ手段として、大字誌が編まれた例がある。福島県双葉町・浪江町にまたがる地区で作られた記録集がそれだ。こうした少部数の刊行物の最も現実的な保存先は、地域の図書館にある郷土資料室にある。全集や叢書という「正典」に入らなかった作品を、大学出版局のような個別の担い手が発掘・復刻する動きと、構造としては同じものだと思う。

二つの「測れなさ」は同じ壁にぶつかっている

経済効果と非正典資料の保存は、一見まったく別の話に見える。しかし両方とも、「貸出冊数」という一番わかりやすい指標だけでは語れない仕事だという点で根が同じだ。CVMが挑んでいるのは、お金に換算できるはずなのに換算しにくい価値を数字にすることであり、郷土資料室が抱えているのは、そもそもお金に換算する発想自体になじまない価値をどう残すかという問題だ。方向は逆でも、既存の物差しの外側にあるものを扱っている点は同じである。

この仕事に携わっていると、「本を貸すだけの施設」という説明では足りない場面によく出会う。かといって、無理にすべてを数字に押し込めようとすると、CVMが繰り返し批判されてきたのと同じ過大評価の罠にはまる。数字にできる部分は数字で語り、数字にしにくい部分は「記録として残す」ことの意味そのものを語る——両方の言葉を持っておくことが、この仕事には要る気がする。

誰に返せるか

図書館の運営や予算に関わる人には、経済効果を語るための手法と、その限界を、両方セットで持っておくことを勧めたい。自分の住む地域の記憶を残したいと思っている人には、まず地元の図書館の郷土資料室を訪ねてみることを勧める。正典に入らなかった記録を待っている棚が、たぶんそこにある。

関連する著作にも、制度が測り漏らすものをどう扱うかをテーマにした巻がある。

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