この記事でわかること

丸の内・大手町のオフィス街から地下鉄でわずか3駅。文京区の根津には、タワーマンションも超高層ビルも見当たりません。昭和の趣を残す木造家屋と、車がすれ違えないほど狭い路地が今も広がっています。都心のど真ん中で、なぜこの一角だけ再開発が及ばなかったのでしょうか。この記事では、東洋経済オンラインの報道などをもとに、江戸時代の遊郭の歴史と、その後の偶然が重なって生まれた「消えなかった町」の背景を整理します。

江戸随一の私娼街だった根津

根津の歴史は、1706年ごろの根津神社の社殿造営にさかのぼるとされています。工事に従事した大工や左官を相手にする居酒屋が集まり、やがて女性を置く岡場所(私娼街)へと変わっていきました。明治に入ると根津遊郭は桜を植え、総門を構えて新吉原を模した町並みを整え、1885年ごろには貸座敷の数が106軒に達し、当時85軒だった吉原を上回る規模になっていたといいます(東洋経済オンライン)。江戸から明治にかけて、根津は「東京第一の遊里」とまで呼ばれる盛り場でした。

東京大学の開設が移転を招いた

その根津の運命を変えたのが、1877年の東京大学開設です。大学が本郷に置かれると、根津遊郭がすぐ近くにあることが「学生が勉強せず遊郭に入り浸る」として問題視されるようになりました。風紀上好ましくないという理由から当局に移転を命じられ、1887年に根津遊郭は廃止。1888年6月末をもって、多くの店が現在の江東区東陽町にあたる洲崎の埋立地へと強制的に移されています(エキサイトニュース/ビジネスジャーナル)。遊郭という「稼ぐ機能」を失ったことで、根津の土地は一度、大規模な商業開発の圧力から外れることになりました。

震災と戦災を逃れた「生き残り」

遊郭が去ったあとの根津を決定づけたのが、二度の大災害を免れたという偶然です。1923年の関東大震災、そして第二次世界大戦の東京大空襲。いずれも東京の広い範囲を焼け野原に変えましたが、根津を含む谷中・千駄木一帯(通称「谷根千」エリア)は被害が比較的軽く済み、江戸後期から明治・大正・昭和にかけての木造家屋が焼け残りました。谷根千地域の紹介では、この地域に築100年を超える木造家屋や神社仏閣が今も珍しくないことが指摘されています。焼け野原にならなかった土地は区画整理の対象にもなりにくく、細く曲がりくねった路地がそのままの形で残り続けたのです。

なぜ今も再開発されないのか

もう一つの要因は、地形と道路そのものにあります。根津の路地の多くは幅4メートルに満たず、建築基準法上、大型の建物を新築する際にはセットバック(敷地の後退)が必要になります。区画が細かく入り組んでいるため、複数の地権者をまとめて一つの大規模な敷地に整理する再開発の合意形成そのものが難しく、バブル期に地上げの動きがあった時期でさえ、タワーマンションや超高層ビルの建設には至らなかったとされています(東洋経済オンライン)。「再開発しなかった」というより、「土地の条件と歴史の巡り合わせが、再開発を難しくし続けた」というのが実際のところに近いでしょう。

まとめ

遊郭としての盛り場を失い、大災害からも焼け残り、道路の狭さが大規模開発の壁になる——根津が今の姿を保っているのは、一つの理由ではなく、複数の歴史的な偶然が積み重なった結果です。大手町から3駅という近さと、昭和以前の町並みが同居する風景は、そう考えると納得のいくものに見えてきます。近くを訪れる機会があれば、狭い路地の一本一本に、こうした積み重ねの跡を探してみるのも面白いかもしれません。