この記事でわかること
一人の軍人が、ある戦争は自ら計画・実行しながら、別の戦争には強く反対する——そんな矛盾した行動が実際にありました。1931年の満洲事変を主導した陸軍軍人・石原莞爾です。この記事では、石原がなぜ満洲事変を起こしながら日中戦争には反対したのかを、公開されている歴史資料をもとに整理します。読み終える頃には、「一貫性がない」という評価だけでは片づけられない、彼なりの戦略の筋道が見えてくるはずです。
満洲事変を主導した関東軍参謀
石原莞爾は1928年に関東軍作戦主任参謀として満洲へ赴任し、板垣征四郎らとともに1931年の満洲事変を計画・実行しました。当時の彼は「軍略の天才」と評されるほどの立案力を持ち、満洲事変は関東軍による軍事行動として満洲国建国につながっていきます(出典:Wikipedia「石原莞爾」)。
石原の満洲構想の背景には、ヨーロッパの戦争史研究と日蓮主義者・田中智学の思想があり、日米が最終的に決戦を行うという未来像を前提に、満洲・蒙古を日本の勢力圏として確保する計画を組み立てていたとされています(出典:防衛研究所 石津朋之「総力戦、モダニズム、日米最終戦争」)。
6年後、同じ人物が「不拡大」を叫んだ
満洲事変から6年後の1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まります。このとき石原は参謀本部作戦部長という要職にありながら、戦線拡大に強く反対し、事態の収拾に走り回りました。満洲事変の首謀者が、今度は戦争を止めようとする側に回ったのです(出典:PRESIDENT Online「満洲事件の首謀者なのに日中戦争に反対…天才過ぎて誰も理解できなかった石原莞爾という『異物』の正体」)。
一見すると、これは単なる方針転換や優柔不断に見えるかもしれません。しかし石原の中では、両者は矛盾なくつながる一つの戦略でした。
反対の理由は「平和主義」ではなく「最終戦争への準備」
石原が日中戦争の拡大に反対した理由は、対中国での消耗を避け、来るべきソ連との対立に備えて満洲国の育成に国力を集中すべきだと考えていたからだとされています(出典:PRESIDENT Online)。
さらに石原は、日中戦争を「東洋が西洋との決戦に臨む前の準決勝」と位置づけていました。日本が中国と無用に消耗するのではなく、いずれ中国を含む東アジアが結束して西洋文明に対抗すべきだという構想を持っていたため、盧溝橋事件以降の戦線拡大には一貫して反対したというわけです(出典:PRESIDENT Online)。
つまり石原にとって、満洲事変も日中戦争への反対も、同じ一つの構想——1940年に著書『世界最終戦論』としてまとめられる、日本を中心とする東洋と、アメリカに代表される西洋とがいずれ「世界最終戦争」を戦うという長期的な見通し——から導かれた判断だったのです。『世界最終戦論』は「道義的世界統一」を掲げる東洋の王道と、「侵略的世界統一」を掲げる西洋の覇道が最終決戦を行った後に世界平和が訪れる、という展望を示した書とされています(出典:Wikipedia「世界最終戦論」)。
「異物」と見なされた天才の孤立
この長期的な戦略眼は、当時の陸軍組織の中ではなかなか理解されませんでした。目先の戦局や組織内の力学を優先する周囲と、数十年単位の世界戦略で物事を判断する石原との間には、大きな温度差があったとみられます。結果として石原は、軍略家としての評価は高い一方で、組織を動かし自らの構想を実現させる政治力には欠けていたとも評されており、次第に主流から外れていったとされています(出典:PRESIDENT Online)。
この矛盾から学べること
石原莞爾のケースが示しているのは、「一貫性」と「一見矛盾した判断」は必ずしも対立しないという点です。表面的な行動だけを見れば矛盾に映っても、その人が置いている時間軸や優先順位まで遡ると、筋が通っていることがあります。逆に言えば、誰かの判断を「矛盾している」と評価する前に、その人がどんな時間軸でものを考えているのかを確認する視点は、歴史上の人物評価に限らず、現代の意思決定を見る上でも参考になりそうです。
石原莞爾という人物については評価が分かれる部分も多くありますが、少なくとも「なぜ同じ人物が正反対に見える判断をしたのか」という問いを立てること自体が、歴史を学ぶ面白さの一つだと言えるでしょう。