最澄と空海が唐へ渡った804年の遣唐使には、日本へ戻らなかった僧がもう一人いたとされます。霊仙です。それから半世紀余りのち、空海の弟子で元皇太子の真如(高岳親王)も、唐からさらに天竺を目指して消息を絶ちました。

この記事を読むと、二人について「史料で確かめられること」と「伝聞や後世の話にとどまること」を切り分けて理解できます。毒殺説や「虎に食われた」という話がどこまで確かなのかを、出典をたどって整理します。

二人は「同じ時代」の人ではありません

最初に、混同されやすい点を整理します。

霊仙は804年(延暦23年)の遣唐使の一員として唐へ渡ったとされ、同じ遣唐使には最澄、空海、橘逸勢らがいました(Wikipedia「霊仙」)。ただし、渤海の使節団とともにもっと早く渡ったという説もあります(和樂web)。

一方の真如(高岳親王)が奈良を発ったのは861年です。空海の入定は835年(承和2年)ですから、それより四半世紀以上あとになります(Wikipedia「高岳親王」)。真如は空海の弟子でしたが、最澄・空海と同じ船に乗った人ではありません。

二人に共通するのは、唐へ渡ったあと日本へ戻らなかったこと。そして最期をめぐる話が、確かな記録、伝聞、後世の物語という何層かに分かれていることです。

霊仙:唐で「三蔵」の号を得た僧

霊仙の出自ははっきりしていません。近江国(現在の滋賀県)の出身とも、阿波国(現在の徳島県)の出身とも伝えられます。一説に生年は759年で、渡唐は45歳のときでした(Wikipedia「霊仙」)。

唐での大きな仕事は、経典の翻訳です。和樂webによると、810年7月30日に宮中で梵語の経典が見つかり、長安の醴泉寺で『大乗本生心地観経』の翻訳が始まって、翌811年3月8日に完成しました。霊仙が担ったのは「筆受并訳語」、つまり梵語の聞き取り・筆記と、漢文への翻訳です。この業績により、皇帝の憲宗から「三蔵」の号を与えられたとされます。

憲宗は霊仙を厚遇した一方、仏教の秘伝が国外へ流れることを恐れて帰国を禁じたとされます(Wikipedia「霊仙」)。その憲宗が暗殺されると、霊仙は迫害を恐れて五台山へ移りました(同)。和樂webは、820年9月に五台山の普通院に着いたと記します。

日本との細い糸も残っています。825年、渤海僧の貞素が淳和天皇から託された黄金百両を霊仙に届け、霊仙は仏舎利と経典を日本へ送りました(和樂web)。

「毒殺」はどこまで確かなのか

霊仙の没年は、825年から828年のあいだとされ、はっきりしません(和樂web、Wikipedia「霊仙」)。和樂webによれば、828年に貞素が再び五台山を訪れて霊仙がすでに亡くなっていることを確かめ、『日本国内供奉大徳霊仙和上を哭する詩ならびに序』という哀悼の詩を残しました。

毒殺説の出どころは、入唐僧の円仁が五台山の霊境寺で聞いた話です(和樂web)。霊境寺の浴室院で毒殺されたとされますが、円仁が耳にした伝聞であり、埋葬地も分かっていません。Wikipediaも「一説によれば毒殺された」と、断定を避けた書き方をしています。

整理すると、確かなのは「825〜828年のあいだに五台山で亡くなった」ところまでです。毒殺は、840年ごろに円仁が現地で聞いた話という位置づけになります。誰がなぜ毒を盛ったのかを示す記述は、ここで参照した資料には見当たりません。

真如(高岳親王):皇太子から天竺をめざす僧へ

真如は799年に生まれた平城天皇の皇子、高岳親王です(Wikipedia「高岳親王」)。809年に皇太子に立てられますが、翌810年、薬子の変に伴う政変で廃太子となりました。

その後は出家し、東大寺で道詮に三論宗を学び、空海にも師事して、空海の十大弟子の一人に数えられます(Wikipedia「高岳親王」、半蔵門ミュージアム)。

そして60代で、入唐を決意します。Wikipediaによれば、861年に奈良を発ち、翌862年に大宰府から出帆して明州(現在の寧波)に着きました。ただし入唐の年次は資料によって前後します。唐の皇帝の勅許を得て、865年、従者3人とともに広州から海路で天竺を目指しました。ここから先、親王の足取りは途絶えます。

「虎に食われた」は、あとから語られた話

真如の消息が日本に伝わったのは、それから16年後でした。881年(元慶5年)、在唐の留学僧・中瓘らの報告で、親王は羅越国で亡くなったと伝えられます(Wikipedia「高岳親王」)。羅越国はマレー半島の南端と推定されており、現在のシンガポール付近とする解説もあります(半蔵門ミュージアム)。同ミュージアムの解説は、病気による死と推定しています。

虎に食われたという話は、巷説として伝わるものです(Wikipedia「高岳親王」)。西山厚氏の著書を紹介する記事は、のちに虎に食べられたと言われるようになったものの、信憑性はまったくないという立場を取っています。同記事によれば、澁澤龍彦の小説『高丘親王航海記』では、虎が創作的に描かれています。

つまり真如の場合は、「羅越国で亡くなった」という報告が記録に残り、「虎に食われた」は後から付いた話、という順番になります。

二人の記録から見える、読み分けの型

二人の話を、確かさの層ごとに並べてみます。

  • 霊仙
  • 記録で確かめやすい:804年の渡唐、810〜811年の翻訳事業と「三蔵」の号、825年の日本との往来
  • 伝聞にとどまる:毒殺(840年ごろに円仁が聞いた話)
  • 分からない:没年(825〜828年のあいだ)、埋葬地、毒殺の犯人や動機
  • 真如
  • 記録で確かめやすい:809〜810年の立太子と廃太子、出家と空海への師事、865年の広州出発
  • 報告として伝わる:881年に伝えられた羅越国での死
  • 後世の話:虎に食われたという巷説

帰らなかった理由も違います。霊仙は憲宗に帰国を禁じられたとされ(Wikipedia「霊仙」)、真如は自ら天竺へ向かいました。前者は帰れなかった人、後者は帰らなかった人です。ただし前者の事情も、参照した資料が一つの説明として伝えているものです。

劇的な最期の話ほど、毒殺や虎といった印象的な一言だけが独り歩きしがちです。その話を最初に書き留めたのは誰か、いつ聞いた話なのかを一段さかのぼると、同じ人物がまた違って見えてきます。

出典