幕末、薩摩藩主・島津斉彬は西洋の技術情報を集めるだけで終わらせず、反射炉や造船所という「工場」を実際に鹿児島の地に建てました。限られた藩の財政の中で、なぜそれが可能だったのか。この記事では、斉彬が推し進めた集成館事業を「財政の前提」「人材登用」「実行力」という3つの切り口から読み解き、現代の事業変革にも通じる考え方を探ります。

「知識」を「工場」に変えた意思決定

島津斉彬は1809年4月28日に生まれ、1851年(嘉永4年)2月、43歳で第11代薩摩藩主に就任しました。就任後まもなく、鹿児島の磯(現在の仙巌園周辺)に反射炉・溶鉱炉の建設を始め、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造など、西洋の軍事・産業技術を次々と実地に落とし込んでいきます(Wikipedia「島津斉彬」)。この一連の洋式工場群は1857年(安政4年)8月に「集成館」と命名されました(Wikipedia「集成館事業」)。西洋の技術書を読むことと、実際に炉を築いて金属を溶かし、船を造ることの間には大きな距離があります。斉彬の事業が際立つのは、情報収集のその先――実装にまで踏み込んだ点にあります。

投資の前提――父の代に作られた財政の余地

大きな設備投資には、当然ながら元手が要ります。薩摩藩はかつて500万両という巨額の借財を抱える窮乏藩でした。この財政を立て直したのが、斉彬の父・斉興の家老だった調所広郷です。調所は商人からの借金を無利子・250年賦にする荒療治を行う一方、黒糖の専売制や琉球を介した密貿易を進め、1840年(天保11年)には藩の金蔵に250万両の蓄えを作るまでに財政を回復させました(鹿児島県公式サイト「調所広郷の財政改革」、歴史街道)。斉彬の集成館事業は、この財政再建という前提の上に成り立っていました。さらに斉彬自身も貨幣鋳造事業を推進し、1日およそ2,000人を働かせて3年間で290万両を鋳造したと伝えられています(Wikipedia「島津斉彬」)。大きな変革は、情熱や危機感だけでなく、先代が整えた財源という地味な土台があって初めて動き出せるものだったといえます。

身分より能力――西郷隆盛らの登用

斉彬の人材登用は、家柄にとらわれないことで知られています。藩主として鹿児島に帰った1851年、下級藩士だった西郷隆盛に対し、米価について問い、答えられなかった西郷に「米価は民の生活を左右する。それが分からなければ国政は行えない」と諭したという逸話が伝わっています。この一件をきっかけに、斉彬は西郷を側近として重用するようになりました(刀剣ワールド「島津斉彬」)。同じく下級藩士だった大久保利通も、斉彬のもとで頭角を現していきます。技術という新しい領域に踏み出すとき、既存の身分秩序の中で評価されてこなかった人材に光を当てたことは、集成館事業を支える組織づくりの重要な一部でした。

反射炉から薩摩切子まで――事業の広がり

集成館事業の内容は、大砲や軍艦の製造にとどまりません。長崎・桜島での造船、江戸での蒸気機関の製造、田上・永吉での紡績など、多方面にわたる事業が同時並行で進められました(Wikipedia「集成館事業」)。最盛期には約1,200人がここで働き、洋式船や蒸気機関、ガス灯、写真技術の実験、そして「薩摩切子」として知られる色つきガラスの生産まで手がけていました。赤色ガラスの製造技術は、当時薩摩藩だけが持つ技術だったといいます(刀剣ワールド「島津斉彬」)。軍事技術の獲得という当初の目的から、紡績やガラス工芸という民生分野にまで事業領域が広がっていった点は、一つの投資が思わぬ波及効果を生んだ例として読むこともできます。

志半ばの死と、その後に残ったもの

斉彬は松平慶永、伊達宗城、山内豊信とともに「幕末の四賢侯」と称され、老中・阿部正弘に幕政改革を訴え、公武合体・武備開国の路線を推し進めました(Wikipedia「島津斉彬」)。しかし1858年(安政5年)7月8日、鹿児島城下での練兵観覧中に発病し、7月16日に死去します。コレラが有力な死因とされ、藩主在任はわずか7年でした(同)。斉彬の死後、藩財政を懸念した父・斉興によって集成館事業はいったん縮小され、1863年の薩英戦争では工場群の多くが焼失しました。それでもこの取り組みは途絶えることなく、後を継いだ島津久光・忠義父子のもとで「第二期集成館事業」として再建されていきます(Wikipedia「集成館事業」)。

財政の土台を引き継ぎ、身分にとらわれず人を登用し、情報を実際の設備にまで落とし込む。そして本人の代で完結しなくても、仕組みが次の世代に引き継がれていく。集成館事業の展開は、一人の経営者・一つの事業の成否を超えて、変革がどう積み重なっていくのかを考えさせてくれます。