「好き」を仕事にできる人と、できない人の違い

自分の趣味や情熱を仕事に活かせないだろうか——そう考えたことがある人は多いはずです。ただ、実際に情熱を事業へと育てられる人はわずかです。この記事を読むと、その分岐点がどこにあるのかが分かります。手がかりは、コーエーテクモホールディングス創業者・襟川陽一氏の歩みです。趣味のゲーム開発が、歴史シミュレーションという新ジャンルを生み、世界的な企業へと育っていった経緯を追います。

出発点は「趣味」ではなく「家業の倒産」だった

襟川陽一氏は1950年、栃木県足利市の生まれです。地元の高校を経て慶應義塾大学商学部を卒業し、家業である染料・工業薬品の卸販売会社に入りました。ところが、この家業は間もなく行き詰まってしまいます。

ゲーム会社の創業と聞くと「好きなことを追いかけた末の起業」を想像しがちですが、実際の出発点はまったく違いました。襟川氏は1978年7月25日、家業の再起を期して足利市に染料・工業薬品の問屋として株式会社光栄(後のコーエー、現コーエーテクモホールディングス)を創業しています。最初の光栄は、ゲームとは無縁の問屋業でした。

30歳の誕生日プレゼントが転機になった

問屋として始まった光栄が、なぜゲーム会社に変わったのか。きっかけは1980年10月26日、襟川氏の30歳の誕生日でした。妻の恵子氏がシャープ製のパソコン「MZ-80C」を贈ったことから、襟川氏はソフト開発に強い関心を持つようになったと伝えられています。

当時、足利は繊維産業の街として知られていましたが、染料業はすでに斜陽産業になりつつあり、光栄の経営も苦しい状態でした。個人的な贈り物との出会いが、業種転換の号砲になったのです。

1981年10月、光栄は第1作『シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦』を通信販売します。結果は染料業の年商の3倍という売上でした。この手応えを確かめた上で、光栄はソフト開発専業へと舵を切っていきます。趣味への転換は一気にではなく、小さな成功を確認しながら段階的に進んだことが分かります。

『信長の野望』が新しいジャンルを確立した

1983年3月30日、『信長の野望』が発売されます。戦国大名として国を治める内政・軍事シミュレーションという形式は当時としては新しく、大ヒットとなりました。この作品によって「歴史シミュレーションゲーム」という新しいジャンルそのものが確立されたと評価されています。1985年に発売された『三國志』シリーズも合わせてロングヒットとなり、光栄はゲームメーカーとしての地位を固めていきました。

襟川氏は「シブサワ・コウ」というプロデューサー名でも知られ、40年以上にわたり同社のほぼすべてのタイトルに関わり続けています。1999年に社長職を妻の恵子氏に譲って会長に就任し、2001年には最高顧問として経営の第一線を退きゲーム制作に専念しました。2009年のコーエーとテクモの経営統合を経て2010年にホールディングス社長へ復帰し、2025年6月には会長兼取締役会議長に就任しています。制作から経営まで、40年以上にわたって「信長の野望」と関わり続けてきたことになります。

情熱が事業になるまでに踏んでいる順番

ここまでの経緯を振り返ると、いくつかの共通点が見えてきます。

第一に、事業の出発点は「趣味を仕事にしよう」という計画ではなく、既存事業の行き詰まりでした。第二に、転機となったのは偶然の贈り物という小さなきっかけであり、最初から壮大な事業計画があったわけではありません。第三に、最初の通販での手応え(年商3倍)を確かめてから本業を切り替えるという、段階的な判断が取られています。情熱だけを先に掲げて全てを賭けたわけではなく、小さく試し、結果を見てから比重を移していった順番です。

自分の「好き」がビジネスになるかどうか確信が持てないという悩みに対して、この事例が示すのは「確信してから動く」のではなく「小さく動いて確信を作る」という順番です。趣味を仕事に変えられるかどうかは、情熱の大きさよりも、この段階の踏み方に左右されるのかもしれません。