この記事でわかること

仕事や人生で大きくつまずいたとき、その経験をどう次につなげればよいのか、迷うことは少なくありません。明治から大正にかけて活躍した政治家・大隈重信は、政府の中枢から追放され、テロで右脚まで失いながら、二度にわたって内閣総理大臣に就いた人物です。この記事では、大隈が数字に強い財政官僚から出発し、挫折のたびに新しい足場を自分で作っていった経緯をたどります。読み終える頃には、逆境を経歴の終わりにしない考え方のヒントが見えてきます。

数字に強い財政官僚としての出発

大隈重信は1838年(天保9年)、佐賀藩士の家に生まれました(国立公文書館「明治宰相列伝」)。藩校・弘道館で学んだのち蘭学寮や英学塾で洋学を修め、明治維新後は新政府に出仕して財政畑を歩みます。1873年(明治6)に大蔵卿(現在の財務大臣に相当)に就任し、地租改正や殖産興業といった財政再建の実務を担いました(大隈重信 Wikipedia)。国家の懐事情という最も動かしがたい現実を数字で把握する仕事が、大隈のキャリアの土台になっています。

政界を追われた「明治十四年の政変」

順調に見えた官僚人生に転機が訪れたのは1881年(明治14)です。大隈は同年3月、政党内閣制を基軸とする早期の国会開設を政府に提言していました。折しも北海道開拓使の官有物払下げをめぐる不正疑惑が表面化し、世論の反発が強まります。政府内では大隈が情報を漏らしたとの疑いも持たれ、10月には参議を辞任に追い込まれました。これが「明治十四年の政変」です(国立国会図書館「明治14年の政変」)。同時に政府は1890年を期した国会開設を約束する詔書を発しており、大隈が主張した方向性そのものは通った一方、本人は政権の外に置かれるという皮肉な結果になりました。

下野から生まれた早稲田大学

政府を追われた直後、大隈は次の足場を素早く作ります。1882年(明治15)4月に立憲改進党を結成して党首に就任し、同年10月21日には小野梓や高田早苗らとともに東京専門学校(現在の早稲田大学)を開設しました(早稲田大学「大学事始」)。学校は「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を掲げ、来るべき立憲政治を担う人材の育成を目的としていました。政府中枢という立場を失っても、教育と政党という別のルートから社会に関わり続けたことが、後の政界復帰の布石になります。

爆弾テロを越えて掴んだ、二度目の総理の座

大隈は1888年に外務大臣として条約改正交渉にあたりますが、1889年10月18日、これに反対する国家主義団体・玄洋社の来島恒喜が投じた爆弾で右脚を大腿部から失う重傷を負いました。来島はその場で自決しています(中公新書によるまとめ、国立公文書館「日本のあゆみ」)。この事件で条約改正交渉は頓挫し、大隈は同年末に外相を辞職しますが、政治の舞台から退くことはありませんでした。1898年(明治31)、進歩党と自由党が合同して結成した憲政党を基盤に第1次大隈内閣が成立します。内務大臣に板垣退助を迎えたこの内閣は、陸海軍大臣を除く全閣僚が憲政党員という日本初の政党内閣で、二人の名から「隈板内閣」と呼ばれました(コトバンク「隈板内閣」)。さらに1914年(大正3)には16年ぶりに首相へ返り咲き、第2次大隈内閣を組織しています。

大隈重信の行動原理を今に活かす

大隈のキャリアを振り返ると、成功の連続ではなく、追放・負傷という二度の大きな断絶を挟んでいることがわかります。それでも政界の頂点に二度立てたのは、財政官僚時代に培った数字で現実を見る力と、下野した直後に教育機関や政党という新しい足場を自分で作る行動力を併せ持っていたからだといえます。今の仕事やキャリアで大きくつまずいたときも、失った立場を惜しむより先に、今できる形で関わり続けられる次の場をどう作るかを考えることが、大隈の生涯からの実践的な学びになるはずです。